大判例

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東京高等裁判所 昭和56年(ネ)2653号 判決

控訴人

医療法人社団恒春会馬嶋病院

右代表者理事

馬嶋正雄

控訴人

馬嶋正雄

右両名訴訟代理人弁護士

饗庭忠男

水沼宏

被控訴人

橋本富治

橋本茂治

右法定代理人親権者

橋本康治良

橋本節

右両名訴訟代理人弁護士

早崎卓三

主文

原判決中控訴人ら敗訴部分を取り消す。

被控訴人らの各請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

控訴人ら代理人は、「原判決中、被控訴人橋本富治の請求を棄却した部分を除き、これを取り消す。被控訴人らの請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人ら代理人は、「本件控訴を棄却する。訴訟費用は第一、第二審とも控訴人らの負担とする。」との判決を求めた。

第二  当事者の主張

当事者双方の主張は、次に加除、訂正するほか、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用する。

一  原判決の補正

1  原判決中、「馬島」とあるを「馬嶋」と改める。

2  原判決九枚目表六、七行目の間に改行のうえ、「(五)は否認する。」を加え、同一〇枚目表一〇行目の「八一」を「八三」に、同一一枚目表五行目の「二二」を「二」に、同一五枚目裏六行目及び同一九枚目裏末行の「二日間」をいずれも「二晩」に、同二〇枚目表九行目の「後頭位」を「前頭位」にそれぞれ訂正する。

二  控訴人らの当審における主張

1  補充主張

(一) 遅延損害金の起算日について

被控訴人ら主張の本件弁護士費用の遅延損害金の起算日は伴子の死亡の翌日とすべきではなく、着手金についてはその支払時、成功報酬については少くとも判決言渡ないしその送達時以降とするのが相当である。

(二) 本件におけるCPDの存在について

(1) CPDとは、児頭と骨盤との間に大きさの不均衡が存在するために分娩が停止し、あるいは母児に危険が切迫したり、あるいは障害が当然予想される場合をいうと定義されている(日本産婦人科学会産科定義委員会の骨盤の大きさに関する小委員会決定)。しかし、本件手術当時には未だCPDの定義は確立しておらず、また、右のいわば狭義のCPDの定義では、動的状態の分娩現象の一部のみを捉えて静的状態で児頭と骨盤の大きさを比較するに止まる点において、母児の生命に係わる動的な分娩現象を扱う産婦人科医にとつては狭義にすぎる。しかも、CPDの診断のため多数の方法が考案されているが、未だ完全な検査方法とされたものがないということは、CPDを前記のように定義したからといつて、それだけでは問題を解決しえない動的な要素か分娩に伴うとともにCPDを作り上げている諸因子があるからにほかならない。

(2) CPDを作り上げる因子としては、主に次のようなものがある。

(イ) まず骨盤の大きさが問題となるが、骨盤の形態は、その入口から潤部を経て甚だ複雑であり、しかも骨盤の実態は骨のみでなく、その内側を筋肉や靱帯等の軟組織が覆つており、その収縮や弛緩が骨盤の広さに影響してくるから、ただ骨だけの大きさや太さの問題ではない。

(ロ) 児頭と骨盤は娩出を容易にしようとする応形機能をそれぞれ有している。すなわち、児頭は狭い産道を通過する際、周囲から圧迫されて、頭骨の骨重積が発来し、その容積が縮小する。一方、骨盤は、腸骨、仙骨、恥骨の接合部すなわち仙腸関節、恥骨結合が、妊娠中に分泌されるホルモンの作用で緩み、下向する児頭の圧排によつて拡大する。児頭の縮小と骨盤の拡大とが同時に起つて、静的に観察した骨盤の広さと児頭の大きさの関係からは娩出不可能な数値関係のものでも、娩出可能となるが、これには右のような児頭と骨盤の応形機能が関連するとともに、これを推進する娩出力が微妙に作用する。

(ハ) 分娩を進行させる重大因子に娩出力がある。これは、子宮収縮(陣痛)、腹圧、軟産道の攣縮等から成り立つているが、骨盤及び児頭の応形機能と微妙な関係を保ちながら分娩を推進する。これは、母体の体力、精神的因子等によつても左右される微妙なものであり、弱すぎれば分娩が進行せず、強すぎれば子宮破裂等を惹起する。

(ニ) 骨盤(骨産道)に対するものとして軟産道があり、両者が一つになつて産道を形成しているが、軟産道は、子宮下部(峡部)・頸管・膣・会陰からなつている。軟産道の伸展性が悪いと子宮口が開大しにくい(先進児頭の下降が妨げられるので、子宮口を圧排拡大しない)。これは軟産道強靱、鬆粗性不良といわれるものであり、児頭の骨盤入口への嵌入状況に大きな影響を与える。軟産道因子はCPD因子から除外する説もあるが、骨盤入口の狭小、変形、及び児頭のこれへの対応状況に微妙な影響を与え、臨床上狭義のCPD因子と鑑別しにくく、両者が合併して起ることもある等に鑑みると、いわば広義のCPD因子とするが相当である。

(3) 通常は妊娠第三八週目には児頭が骨盤入口に嵌入するのに、伴子の場合は、妊娠第三九週三日の昭和四八年九月一日の時点でも、子宮口が一指開大したのみで、児頭先進部はまだ骨盤入口上部(前部)にあつて嵌入していなかつた。同月二日午後一〇時陣痛が発来しているが、これは早期破水後(時間は不明であるが、同月一日午後一二時前後として)約二〇時間を経過していた。陣痛発来後一時間半を経過した同日午後一一時三〇分分娩室に入室させて経膣分娩を試みたが、その微候は現われなかつた。陣痛開始後約一二時間した翌三日午前九時五〇分の時点でも、陣痛が五分間隔になつたのに、子宮口は二指開大したにすぎず、分娩は進行しなかつた。未産婦の平均分娩所要時間は陣痛開始から胎児娩出まで約一四時間であるのに、伴子の場合は、前記早期破水から約五六時間、陣痛開始からでも三六時間を経過した同月四日午前一〇時ころになつても、陣痛は微弱で事態は変らず、分娩は進行しなかつた。同日午後一時五〇分帝王切開術を施行した結果、児頭は骨盤入口に嵌入しておらず、そのため子宮内に手指を挿入する方法で、執刀開始から九分間の短時間で児を娩出することができた。なお、術後診断として、児頭は骨盤入口嵌入前の前頭位であつたことが判つた。

以上の事態経過に鑑みると、亡伴子の骨盤は、外計測上は正常大か正常よりやや大という程度であり、児頭も平均よりやや大という程度であるから、これだけからは狭義のCPDとはいえないが、亡伴子には軟産道強靱があり、早期破水から約五六時間、陣痛開始からでも三六時間を経過した九月四日午前一〇時ころになつても、児頭が下降せず分娩が遷延していたことを総合判断すると、本件においては、軟産道因子が複合した広義のCPDが存在したものというべきである。

また、右事実経過に徴すと、控訴人馬嶋が、CPDと診断して本件帝王切開術を施行したことには過失がない。

2  新たな主張

仮に、狭義のCPDのみがCPDであり、その余は全てCPDとしての帝王切開術の適応とはならないとして、前記1、(二)の主張が認められないとしても、本件には、次のようなCPDとは別の帝王切開術の適応があつた。

(一) 帝王切開術は、胎児と子宮内の妊娠による産生物を腹壁及び子宮に加える切創を通して娩出させる手術であるが、一般的に帝王切開術は、これ以上分娩が遷延すると母児に危険が迫り、しかも経膣分娩が安全に行い得ないと思われるときに適応とされるものであり、それは遷延分娩の限界に立ち、母体側及び胎児側双方の適応因子を検討したうえの総合的判断である。そして、一般的には、母体側適応として、(イ)産道の異常(狭骨盤、軟産道強靱)、(ロ)子宮腫瘍、(ハ)切迫子宮破裂、前回帝王切開、(ニ)全身疾患(晩期妊娠中毒症、心疾患、肺疾患、糖尿病、高血圧)、胎児側適応として、(イ)胎位、胎勢異常、(ロ)巨大児、過熟児、(ハ)臍帯脱出、四肢脱出、(ニ)胎児切迫仮死等があげられ、さらに総合的適応として、(イ)前置胎盤、(ロ)常位胎盤早期剥離、(ハ)児頭骨盤不適合(CPD)、(ニ)早期破水、(ホ)予定日超過、(ヘ)遷延分娩、陣痛微弱、(ト)その他社会的適応等があげられる。

(二) ところで、本件においては、前記1、(二)のとおり、伴子は、早期破水後約五六時間、陣痛発来後約三六時間も経過し、しかも陣痛が五分間隔になつているのに、子宮口は二指開大したにすぎず、その間分娩室において分娩経過を監視して試験分娩を試みたが、児頭は固定せず下降もして来ないという状態であつたので、そのままの状態で分娩が遷延すると、感染の危険、母体の衰弱消耗のおそれが大きいことから、この時点で胎児を娩出させる必要があつた。なお、結果論になるが、術後所見では羊水は混濁していた。感染があれば羊水は混濁するのであるから、その直前に帝王切開術の施行により胎児を娩出する必要性があつたのである。

三  被控訴人らの反論

1  補充主張(一)について

弁護士費用の遅延損害金の起算日を、他の損害費目と区別しないで一律に当該不法行為時とすることは何ら不当ではなく、同旨の裁判実務の取扱いは数多くみられるところであり、控訴人らの右主張は独自の見解であつて相当でない。

2  同(二)について

(一) 控訴人らは、原審における審理終結直前の第三二回口頭弁論期日(昭和五六年二月五日)において、求釈明に対し、本件帝王切開術の適応としては、児頭骨盤不適合のみを主張する旨明確に答弁している。しかるに、当審において、右児頭骨盤不適合(CPD)の定義とは内容を異にする広義のCPDなる独自の定義を案出したうえ、本件において右広義のCPDが存在したとして、本件帝王切開術の適応があつた旨主張し、また、分娩に関する重要な事実である「子宮開大及び児頭下降の各遅延」を付加主張し、いずれも新たな主張をするに至つた。したがつて、右主張はいずれも時機に後れた攻撃防禦方法として、民訴法一三九条により却下されるべきである。

(二) CPDの定義は、児頭と骨盤との間に不均衡(不適合)があつて、児頭が骨盤を通過し得ないことである。解剖学的な狭骨盤の場合であるが、例外的には狭骨盤でも児頭が小さければCPDはなく、逆に正常骨盤でも巨大児のように児頭が大きければCPDとなる。CPDの場合には、胎児を自然産道より娩出させることができず、経膣分娩は絶対不可能であるから、帝王切開術の適応となる。右のCPDの定義はすでに学問上確立しており、同旨の控訴人ら主張の日本産婦人科学会産科諸定義委員会の定義は、我が国の多くの学者の支持承認を得ている。控訴人ら主張の軟産道因子を加味した広義のCPDなる定義は、前記定義に明らかに矛盾する独自の見解に基づくものであつて失当である。

したがつて、本件においては、帝王切開術の適応であるCPDは存在しなかつたのであるから、控訴人馬嶋の本件帝王切開術は不必要、不適切なものであり、これをあえて施行した控訴人らには過失ないし不完全履行の責任がある。

3  新たな主張について

(一) 前記2(一)のとおり、控訴人らは、原審で児頭骨盤不適合のみを主張する旨明確にしている。しかるに、当審において、右新たな主張をもつて、CPDとは全く別個の帝王切開術の適応として新たな主張をなすに至つたものである。したがつて、右主張は時機に後れた攻撃防禦方法として、民訴法一三九条により却下されるべきである。

(二) 帝王切開術の適応について

手術の適応とは、手術を必要とする条件であるから、手術することの危険度と手術を選択しないことによる危険度の比較考量が必ずなされるべきであるところ、帝王切開術の適応についても、外科的手技のもたらす危険と経膣分娩のもたらす危害、あるいは経膣分娩が可能となるまで時間を遷延させることの危害とを充分比較考量し、後者すなわち経膣分娩を行なう方針のもたらす危害が、帝王切開術の外科的侵襲による危険よりも遙かに重大でなければならないものというべきである。

(三) 本件における帝王切開術の適応について

(1) 軟産道強靱について

伴子は、昭和一九年一月二四日生れの女性で、同四七年一〇月二七日挙式(同年一一月一八日婚姻届)、最終月経が昭和四七年一一月二九日から五日間であるから、同年一二月中に妊娠したことは確実である。したがつて、伴子は夫と同居後間もなく妊娠しているから、長期不妊後の妊娠例でないことは明らかである。一般に高年初産婦でも、結婚後間もなく妊娠した場合は概して軟産道の伸展性がよく、分娩障害は少ないとされている。伴子は、初婚かつ初産婦であつて、産道の器質的変化や腫瘍など高度の軟産道異常は全くなかつた。したがつて、仮に伴子に軟産道強靱が存したとしても、それは頸管ではなく、会陰や膣の伸展性の軽度不良に限られていたうえ、それは昭和四八年八月二五日を最後として、その後の同月二九日、三〇日、九月一日の診察時には認められなかつたのである。しかも、このような軽度の会陰、膣の伸展性不良に対しては、薬物投与又は膣、会陰切開の処置を講じれば十分であり、児心音に異常が認められれば、吸引分娩や鉗子分娩を行なえば足りるのである。また、本件は頭位分娩であり、骨盤位、狭骨盤などの合併症は存在しなかつた。なお、初産頭位分娩について、軟産道強靱が帝王切開術の適応となるのは四十歳以上の症例に限定されている。

以上の諸事情に鑑みると、本件においては、もともと帝王切開術の適応となるべき軟産道強靱(会陰、膣の伸展性軽度不良)を認める根拠はなかつたのであるから、右軟産道強靱を理由に本件帝王切開術の適応が存在したとして、これを正当化することはできない。

(2) 早期破水について

本件においては、控訴人ら主張の伴子の破水がいつ発生し、誰れによつて発見されたのか一切明らかにされておらず、破水の疑いが生じた後も、破水を確認するための診察、検査及び破水に対する処置が全くとられていない(この点からみても、当時控訴人らは、破水について、いささかも気にかけていなかつたことは明らかである。)。したがつて、破水の発生自体も確実とはいえない。また、仮に破水の事実が存したとしても、本件医療記録によれば、伴子は、狭骨盤はもとより肩甲位、骨盤位などの胎位異常はなく、臍帯脱出、上肢脱出の異常も認められず、かつ感染の徴候もなかつたうえ、胎児も出産時に何らの異常もなく、胎児心拍も正常であつたのであるから、帝王切開術を施行すべき適応は全く存しなかつたことは明白である。ところで、我が国においては、破水後に分娩が長びく場合、予防的化学療法(抗生物質の投与を予防的に行う)を行なうことが推奨されているが、破水を理由として帝王切開術を認める学者は、控訴人側当審証人澤崎千秋医師を除いてはいない。つまり破水は、それ自体では帝王切開術の適応とならず、別にCPDなど帝王切開術の適応が存在する場合にのみ帝王切開術を施行することが正当化されるにすぎないのである。

したがつて、本件において、早期破水後五六時経過をもつて、帝王切開術の適応として、本件帝王切開術の施行を正当化することはできない。

(3) 児頭嵌入について

控訴人らは、昭和四八年九月四日になつても、本件児頭は固定せず、したがつて骨盤入口部に嵌入せず、児頭が下降しなかつた旨主張するが、(イ)本件帝王切開手術直後、執刀者の控訴人馬嶋は、自ら手術記録の術後診断として、「児頭は陥入しており」、「陥入した児頭」と児頭が骨盤入口部に嵌入していたことを明記していること、(ロ)その後、右記載文言は、同人によつて「児頭は陥入しておらず」、「陥入しない児頭」と改ざん変造されたこと、(ハ)児頭の下降度について、分娩開始後一度も診察、判定した形跡がないこと、(ニ)同月一日伴子を診察した訴外鶴田芳郎医師が、CPDの禁忌とされ、かつ児頭の嵌入固定を前提とする卵膜用手剥離による分娩誘発を行なつていること、(ホ)その際右鶴田医師は、児頭の位置について、下向頭部(児頭先進部)が骨盤入口にあること、つまり本件児頭が嵌入固定して分娩誘発の条件を満しており、CPDが存在しないことを確認していること、(ヘ)本件帝王切開術の執刀者の控訴人馬嶋は、本件分娩時において、胎児に回旋異常(前頭位)があり、児頭が回転しなかつたことを確認していること、つまり前頭位とは、反屈の程度が軽いもので前頭(大泉門)が先進する分娩のことであるところ、反屈位における回旋異常は、分娩機転のうち児頭が骨盤入口に嵌入固定後の内回旋に属する問題であること、(ト)胎児心音異常、母体発熱等の感染を疑わせる徴候は全くなかつたこと、(チ)本件手術時間(執刀開始から娩出まで)が九分であつたことから、直ちに児頭の嵌入固定まで否定することはできないこと等の諸事情に鑑みると、本件においては、控訴人ら主張のような軟産道強靱、分娩異常等の事実が存在したものとはいえず、また、仮に存在したとしても、そのことによつて、経膣分娩が不可能であり又は母児に危険が切迫したものということはできない。

したがつて、控訴人らの右主張をもつては、未だ帝王切開術の適応として本件帝王切開術の施行を正当化することはできない。

第三  証拠〈省略〉

理由

一当事者間に争いのない事実

被控訴人橋本富治(以下「被控訴人富治」という)は、控訴人医療法人社団恒春会(以下「控訴病院」という)で帝王切開術を受けた後死亡した橋本伴子(当時二九歳、以下「伴子」という)の夫であり、被控訴人橋本茂治(以下「被控訴人茂治」という)はその子であること、控訴病院は、内科、外科、産科、婦人科、耳鼻咽喉科、などを併設する病院であり、控訴人馬嶋正雄(以下「控訴人馬嶋」という)は、控訴病院の院長兼産科担当医師で、伴子の帝王切開術の執刀医であること、伴子は、控訴病院に入院したが、昭和四八年九月四日午前中に控訴人馬嶋から帝王切開をすすめられ、同日午後一時すぎころから控訴人馬嶋執刀のもとに同手術(以下「本件手術」という)を受け、同日午後一時五九分胎児(被控訴人茂治)が娩出されたこと、伴子が死亡したことは、いずれも当事者間に争いがない(なお、原判決中、「馬島」とあるを「馬嶋」と改める。)。

二伴子の診療経過

伴子の診療経過についての当裁判所の判断は、次に付加、訂正するほか、原判決が理由第二項「伴子の診療経過」(原判決三六枚目表三行目から同四六枚目裏五行目までの部分)において説示するところと同一であるから、ここにこれを引用する。

1  原判決三六枚目表三行目の「争いのない」の次に「甲第四号証」を、同五行目の「八号証」の次に「第三四号証の一、二」を、同一〇行目の「第一九号証」の次に「第二〇号証、第二一号証の一ないし三」を、同三九枚目表二行目の「末梢血一般検査」の次に「(二一日実施)」を、同裏一行目の「一・〇一六」」の次に「で腎機能低下を認め」を、同八行目の「心電図」の次に「(二一日実施)」を、同四〇枚目裏一〇行目の「泌物は」の次に、「同月二一日の所見と同様で」を、同四一枚目裏末行の「した。」の次に「なお、同日は破水(一)であつた。」をそれぞれ加える。

2  同四三枚目表八行目の「をした。」の次に「なお、同日午後八時ころ血性帯下があり、同日夜半ころ(時間不詳)早期破水があつた。」を、同一〇行目の「陣痛」の前に「午後一〇時ころ」を、同行の「した」の次に「ため、午後一一時三〇分分娩室に移して分娩経過をみた。」を、同四三枚目裏一行目の「なつた。」の次に「なお、午前九時五〇分ころ」を、同五行目の「いるか、」の次に「陣痛開始から二晩(約三六時間)経過するも、」を、同末行の「本件手術」の次に「(術式・臍下正中線切開、ゲッペルト法による腹式帝王切開娩出術)」を、同行の「開始し、」の次に「横切開した子宮内に右手指を挿入したうえ、児頭をひき上げ両手をもつて胎児を娩出することにより、」を、同四四枚目表三行目の「なかつた。」の次に、「なお、出産直後の所見によると、出産児は身長五〇、胸囲三二、頭囲三三・五各センチメートルであり、臍帯の長さは胎盤辺縁付着で三二センチメートルであり、羊水混濁は(+)であつた。」をそれぞれ加え、同四四枚目表五行目の「八八」を「八二」に、同八行目の「ml×二」を「mg×二A」に同裏五行目の「二五」を「二二」にそれぞれ訂正し、同四五枚目表五行目の「番茶」の前に「口喝感を訴えたことから」を、同六行目の「として、」の次に「抗生剤としてクロロマイセチン一g筋注のほかは」を、同行の「補液」の次に「(ただし、ビタミンcは三〇〇〇mg)」を、同四五枚目裏六行目の「あつた。」の次に「腹部膨満の所見があつたことから、」を、同四六枚目表八行目の「施行」の前に「約二時間三〇分」をそれぞれ加え、同末行の「ml」を「mg」に訂正する。

三伴子の死因

伴子の死因についての当裁判所の判断は、原判決が理由第三項「伴子の死因」(原判決四六枚目裏七行目から同四八枚目裏末行目までの部分)において説示するところと同一であるから、ここにこれを引用する(ただし、原判決四六枚目裏八行目の「第六ないし第九号証」を「第六号証、第七号証の一、二、第八号証、第九号証の一、二」に改める。)。

四控訴人馬嶋の過失の有無

被控訴人らは、伴子に帝王切開術の適応が存在しないのに本件手術を実施した過失がある旨主張し、控訴人らは、伴子には帝王切開術の適応であるCPDないし軟産道因子の複合したいわば広義のCPDが存在した。また、仮に右にいうCPDが存在しなかつたとしても、CPDとは別個の帝王切開術の適応が存在した旨主張する。そこで、本件手術の施行について、控訴人馬嶋の過失の有無を検討する。

1  CPDの存在について

(一)  被控訴人らは、控訴人らの帝王切開術の適応として広義のCPDが存在する旨、また分娩の重要な事実である子宮口開大、児頭下降の各遅延があつた旨の主張は、いずれも当審において新たに提出された攻撃防禦方法であるから、民訴法一三九条により却下すべきである旨主張するが、本件記録上明らかな本件訴訟の経過に鑑みると、右攻撃防禦方法の提出に伴い特段本件訴訟の完結を遅延させるものとは認められないから、被控訴人らの右主張は採用しない。

(二)  成立に争いのない〈証拠〉及び当審鑑定人武谷雄二の鑑定結果並びに弁論の全趣旨によると、次の事実が認められ、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

(1) 本件手術当時の我が国における産婦人科臨床医の分野の一般的医療水準として、帝王切開術の適応として児頭骨盤不適合(CPD、以下「CPD」という)があることは確定した事柄であつた。そして、CPDの医学上の定義としては、「児頭と骨盤の間に大きさの不均衡が存在するために、分娩が停止し、あるいは母児に危険が切迫したり、あるいは障害が当然予想される場合をいう。」(昭和四六年一一月日本産科婦人科学会産科諸定義委員会、骨盤の大きさに関する小委員会決定(以下「小委員会決定」という)、日本産科婦人科学会雑誌二四巻二号(同四七年二月号)掲載公表)ところ、臨床的にはCPDは、動態的な分娩過程における個人差のある骨盤と児頭とのそれぞれの応形機能が相乗する相対的関係に支配され、単純に骨盤狭窄と児頭過大等の組合せによつて直ちに診断し難いものであることから、右の定義に基づくCPDの概念に具体的にいかなる範囲の適応事項を含めるのが相当であるかについて多少の異論はあるものの、少くともCPDが児頭と骨盤との間の不均衡により経膣分娩が不可能な状態を指称するものであることは定義として定着していたものということができる(これに反する前掲証人澤崎千秋の供述及び乙第三五号証の一の記載部分は、前掲各証拠に照らし採用しない。)

ところで、前記二認定の伴子の診療経過(引用に係る原判決の理由第二項の1、(一〇)及び2、(七))によると、伴子の骨盤の大きさは、昭和四八年七月二一日(妊娠第三三週三日)同女が第一回目に控訴病院に入院した際実施した骨盤外計測の結果によると、ほぼ平常大か平常よりやや大の平均値であり、子宮底の長さも三〇センチメートルで、CPDの警戒値三五センチメートルを下回わる数値であつた。一方、児頭の大きさも、出産直後の所見によると出生児は体重三〇八〇グラム、身長五〇、胸囲三二、頭囲三三・五各センチメートルの正常児であつたことから推して平均値を著しく超過することはなかつたものと認められる。したがつて、これらの事実に徴すると、伴子には右の定義にいうCPDは存在しなかつたものと推認される。

(2) この点について、控訴人らは、当審において、新たに伴子には軟産道強靱の複合した広義のCPDが存在した旨主張する。しかし、CPDの定義については、前記小委員会決定後、第二五回日本産科婦人科学会総会において、右小委員会決定のCPDの定義を同学会の統一見解とすることが承認されていることに徴してみても、軟産道因子と関連させてCPDの定義付けをすることは、昭和四八年当時は勿論その後現在に至るまで、我が国の産科婦人科臨床医学の実践の場において、一般的見解として定着しているものとは認め難い(これに反する前掲〈証拠〉は、前掲各証拠に照らし採用しない。)。なお、児頭が骨盤入口部に嵌入し得ないのは、ひとりCPDのみではなく、微弱陣痛、軟産道強靱等自体によつても嵌入障害が起り得るものであるから、これらは、後記2のとおりCPDとは別個の帝王切開術の適応とみるのが相当である。しかも、控訴人ら主張のような軟産道因子と関連させた広義のCPDなる定義を創設することは、CPDに名を藉りて安易に帝王切開術を施行することを防止するための臨床医学上の実践的観点からいつても相当ではない。

してみると、控訴人馬嶋が、本件手術の施行に際し、伴子には広義のCPDが存在し、これが帝王切開術の適応となるものと判断したことは、その限りにおいて相当でなかつたものというべきである。

2  本件における帝王切開術の適応の存在について

(一)  被控訴人らは、控訴人らのCPDとは別個の帝王切開術の適応が存在した旨の主張は、当審において、新たに提出された攻撃防禦方法であるから、民訴法一三九条により却下すべきである旨主張するが、前記1、(一)において判示したと同様の理由から、被控訴人らの右主張は採用しない。

(二)  前記1の冒頭に掲記した各証拠によると、次の事実が認められ、他にこの認定を覆すに足りる証拠はない。

(1) 帝王切開術は、胎児と子宮内の妊娠による産出物(胎盤、臍帯、卵膜、羊水)を腹壁及び子宮壁を切開して胎児を娩出させる手術であり、妊娠分娩経過に異常が予測されるか、あるいは緊急の事態が出現した場合、母児の危急を救うための急速遂娩術の一つであるが、その適応は、母体または胎児に生命の危険が発生するかまたは予知し得る場合であり、これは母体側適応、胎児側適応及び総合的適応に分けることができる。その具体的適応としては、①母体側適応として、(イ)産道の異常(狭骨盤、軟産道の強靱・狭窄)、(ロ)子宮腫瘍、子宮奇形、(ハ)切迫子宮破裂、(ニ)前回帝王切開、(ホ)全身疾患(晩期妊娠中毒症、心疾患、肺疾患、糖尿病、高血圧等)、②胎児側適応として、(イ)胎位・胎勢異常(骨盤位、横位、反屈位等)、(ロ)巨大児、過熟児、(ハ)臍帯・四肢脱出、(ニ)胎児切迫仮死、③総合的適応として、(イ)前置胎盤、(ロ)常位胎盤早期剥離、(ハ)児頭骨盤不適合(CPD)、(ニ)早期破水、(ホ)予定日超過、(ヘ)遷延分娩、(ト)陣痛微弱等が挙げられる。以上の各適応のうち、絶対的適応としては骨盤入口面の産科真結合線が七ないし八センチメートル以下の高度の狭骨盤の場合があるが、それ以外の適応は、すべて臨床経過を主体とし、かつ、母児の生命を共に救助することを主眼とする要約(条件)との総合的判断によつて帝王切開術の適応、選択が決定されることになる。そして、右の要約としては、①母体側要約として、(イ)母体が手術に耐え得ること、(ロ)子宮口が二指以上開大していること、もしくは閉鎖していても、これを開口させることができること、(ハ)子宮内、膣に感染が全くないか、あつても軽度であること、(ニ)なるべく破水前であること、破水後は化学療法を十分行なつてあること、②胎児側要約として、胎児は発育し、生存し、母体外生活が可能であること、ただし、母体の大出血などの緊急時には胎児の生死を問わない。

このように、帝王切開術の具体的適応、選択は、動態的な分娩過程における個人差の著しい母体側、胎児側双方の適応及び要約の総合的判断である。

(2) ところで、伴子が昭和四八年八月二三日控訴病院に再入院した後の診療経過は、前記二において認定説示しているとおりである。

そして、右認定事実によると、初産婦の場合、通常は妊娠第三八週目には児頭が骨盤入口部に嵌入するのに、伴子は、妊娠第三九週三日経過した昭和四八年九月一日の時点でも、鶴田芳郎医師の診察結果によると、子宮口が一指開大したのみで、胎胞は緊張していず、胎児先進部は頭部で子宮入口前部にあり、児頭は骨盤入口部に未だ嵌入していなかつた。そこで右鶴田医師は、伴子の陣痛を誘発し経膣分娩を促進する目的で、高位浣腸と卵膜用手剥離を施術した。なお、同日午後八時ころ血性帯下があり、その後同日夜半(時間不詳)に自然破水(陣痛発来前の早期破水)があつた。

同月二日午後一〇時ころ伴子の陣痛が発来したため、午後一一時三〇分同女を分娩室に移したうえ、経膣分娩の経過を観察したが、その徴候は現われなかつた。

翌三日午前九時五〇分控訴人馬嶋が診察した時点でも、伴子の子宮口は二指開大にとどまり子宮口の開大が著しく遅延していた。同日夕方から陣痛周期が五分間隔になつたものの、依然として分娩は進行しなかつた。

四日午前一〇時ころ控訴人馬嶋が診察した際も、すでに陣痛開始から三六時間(また、前記早期破水(推定時間を一日午後一二時前後として)から約五八時間)を経過しているにもかかわらず、伴子の陣痛は依然微弱であつて、児頭が下降せず、著しく分娩が遷延している状況にあつた(なお、前掲武谷雄二の鑑定結果によると、東京大学医学部附属病院産婦人科の場合、初産婦の陣痛発来後胎児娩出までの所要時間は、一般に一三時間(+)(−)九時間であることから、陣痛発来後二四時間以内に分娩に至らない場合を分娩遷延と定義して産科的異常としており、また、日本産科婦人科学会産科諸定義委員会決定によると、初産婦の場合、分娩開始後三〇時間経過するも胎児が娩出に至らないものを遷延分娩と定義している。)。そのため、そのままの状態で経膣分娩を試みることによりさらに分娩の遷延を来たすときは、母体の衰弱消耗により伴子の生命に危険性が切迫するおそれのあることが予測されるとともに、一般に早期破水後二四時間以上経過すると、羊水中の細菌が高率で検出されることから、前記早期破水による子宮内の感染の危険性も予測される状況にあつた(なお、術後所見ではあるが、羊水混濁は(+)であり、子宮内感染の疑いが濃厚であつた。)。このような状況の下で、同日午後一時五〇分控訴人馬嶋の執刀で本件手術が開始され、同控訴人が伴子の横切開した子宮内に右手指を挿入して児頭をひき上げ両手をもつて胎児を娩出した。その間執刀開始から胎児娩出までの所要時間は九分間の極めて短時間であつた。なお、術後所見ではあるが、胎児の臍帯は胎盤辺縁付着で三二センチメートルと比較的短く、児頭には産瘤が認められた。

本件手術当時の伴子の軟産道の状態は、昭和四八年七月二一日、二四日、三一日、八月二五日の鶴田芳郎医師の各診察結果は、いずれも会陰部及び膣部の伸展性がやや不良の状態にあつたこと及び子宮口の開口度の数値が低いこと等に徴し、軟産道(特に子宮膣部)の強靱性因子が存在したことが推認される。

(3)  以上の認定事実を総合判断すると、本件においては、伴子について帝王切開術の具体的な適応及び要約(条件)が存在したものということができる。また、動態的な分娩過程において、時々刻々変化する母児の状況に即応しつつ、経膣分娩の限界点に立つたうえ、臨床医の専門的な裁量権の実践の結果、最良の産科手術として帝王切開術が選択されることになる産科的臨床経緯の特徴を考慮するときは、控訴人馬嶋の施行した本件手術が、客観的にみて右臨床医としての裁量権の範囲を著しく逸脱したものとは認められない。

3 したがつて、本件手術当時の産婦人科臨床医学の一般的な医療水準に照らし、控訴人馬嶋の本件手術の施行については、結局被控訴人ら主張のような過失はなかつたものというべきであり、右過失の存在を前提とする被控訴人ら主張の控訴人馬嶋の民法七〇九条による不法行為責任は、これを認めることはできない。

五控訴病院の責任

前記四において認定判示したとおり、控訴人馬嶋の過失がなかつたものと認められる以上、右過失を前提とし、被控訴人らが前記引用に係る原判決の請求原因3のA及びBで各主張する控訴病院の不法行為責任及び診療契約上の債務不履行責任は、いずれもこれを肯認することはできない。

六控訴人らの分娩管理義務違反の責任

仮に、被控訴人ら主張(前記引用に係る原判決の「第二当事者の主張」の三、B、3記載)のような分娩管理義務が、産科医について一般的に承認されているとしても、本件における伴子の妊娠末期から分娩に至るまでの経緯は、前記二において、原判決の理由第二項を引用したうえ、すでに認定判示したとおりであるから、右伴子の診療経過に徴するときは、控訴人らの伴子に対する本件医療行為において、被控訴人ら主張のような分娩管理義務の懈怠があつたものと認めることはできない。もつとも、控訴人馬嶋らの本件医療記録上の記載方法は、臨床医として通常記載されて然るべき事項について欠落が多く認められるなどいささか杜撰であるとの譏りは免れ難いところであるけれども、前掲証人鶴田芳郎、同馬嶋正剛の各証言、控訴人馬嶋正雄本人尋問の結果及び弁論の全趣旨に照らすと、右医療記録上における具体的な医療行為についての記載の欠落、その記載方法の杜撰さ等の事実が認められるからといつて、そのことの故に直ちに控訴人らが入院患者の伴子に対し当然履行すべき医療行為を懈怠し同女を放置していたものと断定することは、他に的確な証拠のない限り困難である(なお、乙第二一号証の二(本件手術カルテ)の術後診断欄の「児頭は骨盤入口に陥入しておらず横切開した子宮内に右手指を挿入し陥入しない児頭をひき上げ両手を以つて挽出する。」との記載の経緯についても、当該加筆訂正部分の体裁等からみて、「児頭陥入」の意の原文を、後日何人かが加筆訂正して、「児頭不陥入」の文意に改変したとの疑念が生ずるのも一応もつともではあるが、すでに前記二及び四2(二)(2)において認定判示した控訴人らの本件診療経過及び本件手術経過等に徴すると、右手術カルテの術後診断欄の当該加筆訂正部分の体裁の不自然さ等を過大評価したうえ、直ちに控訴人らが、児頭嵌入の事実を隠蔽するため、意図的に右加筆訂正を行い右手術カルテの記載内容を変更改ざんをしたものと断定し、これを控訴人らの責任の存否に結びつけて非難することは相当でない。)。その他本件全証拠を検討するも、控訴人らが、被控訴人ら主張のような分娩管理義務を懈怠したことを肯認するに足りる証拠はない。

したがつて、被控訴人らの右主張は採用できない。

七結論

以上の次第で、被控訴人らの控訴人らに対する本件各請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないから、これを失当として棄却すべきであり、これと趣旨を異にする原判決中控訴人に対する被控訴人茂治の請求を全部認容し、被控訴人富治の請求を一部認容した部分は相当でないから、これを取り消すこととし、訴訟費用の負担について民訴法九六条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官中島 恒 裁判官佐藤繁 裁判官塩谷 雄)

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